帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師
翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。
このころ新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。
父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。
同年恩師の娘・楊開慧と結婚。
1921年に、上海で中国共産党の創立党員として第一回大会に出席し、以後その指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。
コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起したが失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。
この根拠地に潜伏中に地元の名家の娘賀子珍と関係を持ち、1929年には長女が誕生している。
1930年妻の楊開慧が、蒋介石率いる中国国民党軍に捕らえられて処刑される。
このころ新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。
父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。
同年恩師の娘・楊開慧と結婚。
1921年に、上海で中国共産党の創立党員として第一回大会に出席し、以後その指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。
コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起したが失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。
この根拠地に潜伏中に地元の名家の娘賀子珍と関係を持ち、1929年には長女が誕生している。
1930年妻の楊開慧が、蒋介石率いる中国国民党軍に捕らえられて処刑される。
update:2010年02月26日
